「沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー(南部編)」

2014年2月「沖縄ネイチャーウォーク」を主催する下地幸夫さんが企画する「沖縄戦、その始まりから終わり

までを見るツアー(南部編)」に参加しました。沖縄戦について一通りの事しか知らなかった私は現地に行き、

見て、話を聞き、改めてあの戦争とは何だったのかを考えました。

<ツァーの行程>

 陸軍病院南風原壕(人工壕&資料館)→アブチラガマ(自然壕)→八重瀬岳→糸満市摩文仁の丘沖縄

 戦終焉の地→ひめゆりの塔&ひめゆり平和祈念資料館→陸軍病院本部壕跡等→米軍司令官バクナー

 中将戦死地


レポート

この沖縄戦は初めから本土決戦の準備のための時間稼ぎの戦闘でした。軍備面でも勝ち目のない状況で

「天皇陛下のため」という精神論で住民を巻き添えにし戦いを続けた日本軍のあり方と、投降よりも死を

選ばせた教育の恐ろしさを再確認しました。また米軍に追い詰められていく状況とひめゆり学徒がどのような

状況下におかれていたのかを知りました。

南風原壕の狭く蒸し暑い内部や、真っ暗なアブチラガマで行われた悲惨な状況をガイドの方から聞き、

その場に身を置くことは辛いことでした。当事者の方たちがその事実を人に伝える事ができるまでに長い

時間かかったのも無理はありません。

ひめゆり学徒隊は安全な病院での看護活動と思い連れて行かれたのが、塹壕の中の劣悪な野戦病院で、

過酷な看護を強いられたこと。摩文仁まで追い詰められた牛島司令官が住民の安全の交渉などを行わず、

軍に最後まで戦うことを命じ、自らは自決した事は本当にショックでした。「ひめゆり学徒」は戦局のさなか

突然解散命令を出されガマから自己判断で逃げろと戦場に放り出され、その多くが解散後の1週間の間に

自決や砲撃で死亡していたことも初めて知りました。

 

戦闘の指揮を執った牛島司令官の孫で教師となり沖縄戦の授業もしている牛島貞満氏の言葉や、他の

資料を見ても牛島司令官は平時は温厚な教育者肌の人であったと書かれています。

貞満氏の言葉・・「国際法規にも通じていた祖父がなぜ首里で戦争を終らせなかったのか、軍が南部に撤退

すれば住民が犠牲になるとわかっていたはずなのになぜなのか、この疑問は私にとって永遠のテーマである。」

私はこの言葉に映画『ハンナ・アーレント』が浮かびました。ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの「アイヒマン

裁判」のレポートです。凶悪な性格を持っていたわけでなく凡庸な人間であったアイヒマンがナチスの組織の

中で粛々と命令に従っていったように牛島司令官も軍隊という組織の中で思考を停止して命令に従ったので

しょうか。いろいろ考えてしまいました。人は組織の中に入ると思考を止めて上官の命令に粛々と従う習性

をもった生き物であり、また従わせる組織を作ってしまう。軍隊はそのもっとも顕著なものということを認め

なくては、また繰り返してしまいます。一般の人も多くは組織の中の一部となっていきました。

それを止めるために人は記録を残し検証し歴史を学ばなければなりません。

日本はそうしてきたのでしょうか。沖縄戦の記録を日本軍、日本は残しておらず、今ある映像などは市民の

運動、寄付によってアメリカ公文書館から取り寄せたものです。多くのことはいまだに伏せられています。

今の日本に目を向けると原発事故を見ても日本政府は記録を残し検証することをまだ学んでいません。

本土と呼ばれるところで暮らしている私達はほとんど近代史を学ばずに育ちました。日本は検証しないまま

また歴史を繰り返してしまいそうな状況です。平和祈念公園で楽しそうに歩き回る高校生達を見る心は

複雑でした。沖縄戦がどんなものだった、そして戦争とは何かを考える時間が必要だと思いました。格安

航空券で沖縄を訪れる人は急増しています。ぜひこのようなツアーにも参加してほしいと思います。

 

 <沖縄戦の概要・・糸数アブチラガマパンフレットより抜粋>

 

1945年8月15日の終戦間近の3月下旬から7月までの戦い。太平洋戦争の最終段階

起きた地上戦。1941年に太平洋戦争が勃興し、太平洋の島々で劣勢となった日本

軍は米軍が沖縄に上陸するとみて、米軍を沖縄に釘付けにする作戦を取った。

本土決戦の準備をするための時間稼ぎであった。沖縄戦はこの戦争で唯一の地上

戦となった。

4月 1日・・米軍は沖縄本島中部(読谷村)に上陸し日本軍の司令部の

  あった首里へ向かった。米軍の圧倒的な戦力(米兵:約54万人、日本

  兵:約11万人)に、首里の陥落が目前に迫ったところで日本軍は南部へ

  撤退する。南部戦線では十数万の一般住民が巻き込まれ悲惨な終結を

  迎えた。

6月18日・・牛島司令官は敗戦を覚悟し軍の解散命令を出すが兵士には

 「残った上級者が指示をだし、最後まで戦い、悠久の大義に生くべし」と

 最後まで戦うことを命じた。住民の投降は許されず、手りゅう弾での自決

 や最後まで逃げまどい多くの命が失われた。負傷軍人の看護に携わった

 「ひめゆり学徒」はこの日、突如解散命令を出されガマから戦場に放り出さ

 れ多くの命を失う。死亡者の80%が解散後の1週間の間に死亡している。

6月23日・・南端の摩文仁まで追い詰められた牛島司令官の自決により

 日本軍の組織的戦闘は終了するが、軍はゲリラ戦を続け、摩文仁一帯で

 一般住民を含め戦死者を増やしていった。

7月 2日・・米軍が作戦終了を宣言し沖縄戦は終結する。沖縄出身兵2万

 8千人、一般住民9万4千人、日本兵6万6千人、米兵1万2千人が亡く

 なる。

8月15日・・終戦